昭和49年2月4日 朝の御理解


 御理解第二十八節 病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえを           するに、八、九分かえて、退屈してやめれば、掃除はできぬ、そ           れで、やはり水は濁っておるようなもので、信心も途中でやめれ           ば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根           の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信せよ。

 今日はとりわけ、二十八節の後半のところ、途中で止めれば病気災難の根は切れぬと。いうところから特に元気な心で信心せよというところを、強調して頂きますから、その事について聞いて頂きましょう。 
 昨日は、寒修行がますます勢いを出てまいりました。信心修行期間でございましたが、本当に修行期間の間に皆さん素晴らしいおかげを形の上に心の上に頂かれた事でございますが本当にこの自分の心の変わり方というか、どうにも出来ない心をすっきりと変わるというか、有り難くなかったものが、かえってそれが有り難いものになったとかいうお届けがいくらもありましたが、そこからです、その有り難い心に思いもつかない限りないおかげ、いわゆるおかげの進展を見る事が出来るのが信心です。だから実に、信心とは不可思議なものであります。信心によって、心が変わっていく。信心によって、思いもかけないおかげが展開してくるとこういうわけです。
 それには、私は昨日、久留米の佐田さんが体験発表されました中に、朝参りを一家中で始められるようになって六年間、丁度この、寒修行が始まるというので、寒修行だけは一つ皆でお参りしようというので、家族をあげて朝参りをなさったその、月から、6年間続いておるということです。素晴らしいことだと思うのです。今日のご理解を頂いておってですね、もう例えば佐田さんの信心に尽きるです。それこそ病気災難の根はは切れて、井戸は清水になって、ね、そういうところから一心にまたまめで繁盛するよう元気な心で信心せよということを文字通りこの、おかげを頂いておられる。
 そしてほんに、こげん長い間朝参り一家中せんならんじゃなくて、ますます、うれしゅう有り難くなって繁盛の一途をたどっておるということなんですよ。もう私は、あの今日ここんところの、途中で止めればというところから、元気な心で信心せよというこの、28節の半分のところからこっちを頂いたのですよ。けれども、これはあのやはり、始めから頂いても同じ通りの事が説いてありますけれどもです、本当に信心というのは打ち込んでいけば打ち込んでいけばいくほどに味わいがあるのではなくて、心のまあ、変遷というか変わって行くことです。
 ね、それが例えばなら、病気災難の根が切れて、いわゆるめぐりのおとり払いを頂いてという事が難儀な事でめぐりのおとり払いを頂き寄りなさっとるのじゃない。信心でめぐりのおとり払いを頂いておると行った感じです。ね。昨日秋永先生が最後に挨拶をしておりました中に、素晴らしいことを言っておりましたですね。文男先生のこと。あれだけ親先生が朝参りをせろといいござるけん、参ったらどうかというても中々お参りが出来なかった。そしたら見てご覧なさい、びっくり腰をわずらうて、さあ、あの、うちは、昨日から展示会を開いておるけれども、案内配りにも行かれなかった。もうとにかくどうにも出来ない。それでも文男自身はこれで安心したといったような顔をしておりますという。その辺が素晴らしい所ですね。信心は。もうその事を知っておる。もう修行をせんなら、力も徳も受けられんことは知ってるです。けれども体が言うことを聞かなくて朝参りが出来なかった。けれども、このびっくり腰という、その難儀な問題が忙しい一番大変な時にそういうことになった。けれども、はあ、これでもとをとったというものを、文男さん自身が感じておるわけです。私はそこが、あのね、お参りが出来なかったことは素晴らしいことじゃないけれども、そういう神様を信じておる事、そういう風に受けきっていくということが素晴らしいことだと思う。信心とは。
 それをなら佐田さんの場合はです、そういう痛い思いをせんなりにですよ、ずっと順調にもう、病気なら病気の病の字も出らん。難儀ならなの字も出らんといったような感じで、おとり払いをいうならば借金払いもこっちから嬉しゅうして喜んでどんどん払うていっておると行ったような感じです。ほんにそげんじゃ、そうじゃったなあと、私昨日佐田さんの話を聞いて思ったです。ね。
 一家中で一月ならどうでんこうでん、朝参り頑張ろうじゃないのがです、結局六年かかった。おそらくは佐田さん達がこれは一生涯続く事であろう。子供にも孫にも伝わっていくことだろうと思うです。もう、生活の中に信心が入ってしまった。いうならば信心の中に生活が入った。まあこれはちったほめすぎかもしれませんけれどもね、分かりやすくするためにこう申しておるわけです。厳密に言えば中々です。ね。
 六年もまいりゃなきつかじゃなくてです、始めは誰でもそうじゃった。ね。一月だけではいっちょ頑張ろうじゃった。それがしかも本当に六年続いたというしかも、それがますます有り難くなっていっておる、なるほど、めぐりの出ようがない。めぐりが出ようじゃない。そのめぐりがいうなら、こちらから、めぐりを一つの借金とするならね、天地に対する借金とするならば、取りに来られたのでは、文男さんじゃないけれどもね、痛い思いをしなければならない。けれども取りに来てもらうということはまだ神様が見込みがあるからだという事で、そういう顔をしておったという、昨日、秋永先生が文男先生のことを聞いて表現しておりましたがです、ね、そういうところが文男先生の信心のいうならば、素晴らしいところです。
 けれども、それをもっと一周りも二周りも素晴らしくしたのが佐田さんお生き方です。私はその事をです、まず有り難いなあと思ったのはです、あの、本当に有り難いと思ったのが、一番下の恵介君が六年生でしたか、昨日、帰りがけにここにお届けをしていくのです。「僕は先生朝こげなお夢を頂いた」ちいうです。その夢の内容がどういうことかというと、例えばあの、試験がある。学校で試験がある。一生懸命試験がある。ところが勉強しておらんところが試験に出ておった。いや勉強しておったけれども忘れておった。そして、落第点をとった。ね。だから今度勉強、今度はあそこのところをもうちっと勉強しておかなければいけなかった。今度はあそこの知らなかったところあそこをもういっぺん勉強しておかなければならなかったという風にさせてもらって次には百点満点をとるようになった。
 また次にはまた、試験の時に落第点をとった。ね。だからどこんところが間違っておったかということを検討したらここが間違っておった、ここも忘れておった、ここは全然勉強しておらなかったところがもう新しい信心、勉強せんならんいうなら分野が試験の度に分かってきた。だからあの、落第点をとったからというてあの、悲観したり、俺はだめだと思うたりしてはならないというお夢を頂いておる。それを実にその、具体的にですね、まあいうならば、それをずっと話すんです。お届けをするのです。だから僕の、は、神様が学校の勉強のことで頂いておるけれども、例えの事であって、信心しておるから良いことばっかりということじゃない。お願いがずっとかなうと言うことじゃない。かなうたりかなわなかったりだけれでもそこに楽しみがある。落第点があっても次には今度はその間違ったところを勉強して自分のものにしていく。ね。それが信心だというようにご理解を頂いております。ね。だからそういう信心からでなからなければいうなら、元気な心で信心せよということにはならないと思う。そこんところを元気な心で信心せよと教えておられるのですよね。
 昨日、なら、ほう、あんたがたは年参りでしたねというたことですけれども、ある教会のご信者さんで大変、難儀な病気と同時に、ちょうど去年の昨日お参りをしたちいうのですから、丁度一年ぶり。丁度子供さんの就職じゃなかった、入学試験のことで、それで、先生は私立のほうを受けよと言われる、ところが親達は県立のほうにやりたいとこう思う。本人も出来れば県立の方に行きたいとこう思うておる。
 それでそのどういう風に選ばせて頂いたらよいかというお伺いやら、その病気の事やらをお願いにほんにそげんや丁度一年前にあなたが参ってきなさったですねと。昨日は見知らぬ方が連れてきてありましたから、聞いたら、御主人であった。そのご主人がずっと病人であった。ところが親先生から言われたとおりにさせて頂いて、子供も入学のおかげを頂いて主人もおかげでこのように元気になりました。その自分のお参りしよる教会に信心のしの字もなかった主人が、毎日今度の寒修行には一日も欠かさずにお参りをしました。 今日主人を連れてお参り。そして自動車の中にあの、娘婿さんがまたきとってから、その孫とそれが、ちょっと一足遅れて参ってきましたが、これが、あの、娘婿でございます、これが孫でございます。この人たちもおかげで信心をするようになりました。それが親先生こちらから毎月送って頂くあのおかげの泉を、私の方はみんなが十回づつ読む事にしておりますち。あれを、何か一遍、御理解の中に少なくとも十回は読めということがあったのです。だからあの、一節ずつを読むのです。そして家族が信心の共励をするのもおかげの泉をもってするんだそうです。もうそれこそ、あれがつきますと、家族中のものがむさぼるようにして読みますち。なるほどそんなら年に一遍でちゃおかげを頂かすのち言うた事でした。
 これも昨日、今度の寒修行に熱心に参ってきたかたです。娘さんの結婚の事でした。娘さんは気に入っていよいよ行きたいとこういう。けれどもどんなに考えてもまあ、あんまり釣り合わない。いうならばみたらない。だから両親は凄く反対をする。それでも娘はどうでも行くという。そこで親子の一つの対立になった。そこで信心させて頂いておるからおかげでお願をさせて頂いてその時にはなるほど、親の心の通りにもういかんがよかろうじゃった。親がこれだけ反対。とにかく親の祝福、周囲の祝福を受けてなからなければ結婚はいけんのだと。
 ね。それで、親としてはどうぞ、娘はあきらめてくれるごとで一生懸命じゃった。娘はどうでんこうでんおかげを頂くようにで一生懸命だった。そして寒修行に一生懸命親子3人でお参りしてみえた。ね。この修行がです、して、昨日のあの御理解です。ね。「神は天地の守じゃから離れる事は出来ぬぞ」という御理解を頂いて始めて心の目が開けた、心が開けた。本当に親先生おかげを頂きましたと。例えば娘がどこにどうして行こうがです、もう天地の親神様のご守護の中であったと言う事が分かったと。なるほど素晴らしい事が分かったねち。ね。例えば人間それぞれやっぱりプライドというものがある。そして、いうならば出来るだけ娘なら娘でもよかところにやりたい、まあ嫁をとるなら良いところからもらいたい。これはもう親のやっぱり人情です。やっぱり自分家庭も財産も違うし、こうと思うならやっぱり、二の足踏んだのが人情です。けど、娘は気に入っておるけれども親達は気に入らんのですね。もうそうですね、もう半年くらい、そんな中に信心はしておったけれでども、今度の修行でです、修行というものは素晴らしいですよやっぱ。ね。もう例え娘がどこに例えばどういう所にいこうがそこが天地の親神様の懐の中じゃないかと気が付いたというのです。有り難い。信心の心が開けると言う事はそういうことじゃないかと思うのです。だからそこからです、絶対おかげになるです。このくらいの心を開いたらどこにやっても絶対おかげを頂くです。それを開けんなりになら、一番始めのご神意のようにいけんのです。本当にもうあんたがそげんときにはかまわんばのというごたることでやったっちゃです、よかろうはずがないです。
 だからそれはいけん。けれどもまあ一生懸命親は親の願い子は子の願いで一生懸命修行をさせて頂いてこんどの寒修行でいわば、自分の思うようになる事がおかげのように思うておったことがそうではない、「神は天地の守じゃから離れる事は出来ん」という昨日の朝の言葉です、ね。
 どこに例えば娘をやりましょうか行きましょうが、そこも天地の親神様のご守護の中であったということを実感として感じた。これは私は悟りと思うですね。こういう悟りの心が開けたら絶対おかげになるです。親も子も。ね。まあ私は昨日それを聞かせて頂いて、本当に信心と言うのはどんなに赤といいよってもです、心が開けたらもうその場で白になれれる内容を持っておりますですね。おかげはそこから開けてくるのです。これはもう思いもかけないおかげに進展してくるのです。蹴れどもその辺がぐずぐずした心スキッとしない心でそれが続けられてはこれは良い事があるはずがありませんですね。
 それこそ、途中で止めておったらそういう心を開けんなりに、寒修行を終わらなければならなかった。けれどもそこを頂き貫かせて頂いたところでです、元気な心で信心をさせて頂くところからいうならば病気災難の根は切れぬというがね、病気災難のいうならば、病のないほどしの心が開けてくるのです。
 昨日、まあこれはいずれ分かるか分からないか知りませんけれども、ある方のお届けでした。今度の寒修行にも参ったりまえられなかったり、もうそれで、お参りをさせて頂いてお話を頂きよるうちにです、とてもあげな高度な話しを聞いたっちゃ自分達には分からんと思うたのです。途中で。そして、自分のようなお粗末御無礼者は一遍でそげん改まれんと思うた。
 ね。だからもう自分はもうだめだと思うた。自分はおかげを受けられんと思うた。自分のようにいうなら汚れ果てた者、自分のように汚い人間。しかもそれを汚い事と分かりながらそれをやってのけておる自分。しかも自分はいくらお取次ぎの働きと言うても自分は救われ難い自分だとこう思うたというのです。それでもまあ、そういう意気消沈した時にはお参りも出来んけれどもはあこれじゃいかんと思うてお参りをして、昨日は最後のまあ、お参り、最後じゃからお参りしようでお参りをした。
 そしてやっぱり、同じような事を昨日お届けされるのです。後からまた最後に出てきてから。そしたら私の御心眼に頂くのはね、花咲か爺さんのあの、悪い爺さんの方を頂くのです。ね。あの、犬を殺したり臼を割ったりするお爺さんです。もういうならば自分で悪い爺さんになってしまっておる。自分で臼を割っておる自分で犬を殺しておる。そして、もう自分は悪い爺さんだになってしまっておる。そこで、泥やら水やらしか出ないような今日である。けれどもよう考えたらそこんところはそれこそ有り難い爺さんじゃないですけれどもです、ここで今いわれる、御の字をつけてといわれる生き方でいきゃ決して、犬も殺さんで済むしまた、臼む割らんですむようなおかげも頂かれるそこにおかげおかげしかない。この方の道はもう有り難い有り難いで開けた道だから有り難いでは開けんと仰るから、そこばなら、こげなことが有り難いで受けられるかというのである。それはあんた御の字をつければ、有り難い事じゃないかと。はあ本当に最後の寒修行に参いっておかげを頂いたというてかえったかたがありました。
 ね。これもやはり、参ったり参らなかったりでしたけれども、昨日のお参りで最後に自分は救われない、自分はもうダメだとこういうなら、自分で悪か爺さんを決め込んでおった。だから、(?)またこれからどういうことにそれが変わっていくか分からんけれどもです、本当をいうたら有り難いとお礼ばいわなならん事に自分で自分の心を切り刻みしよる。ね。そういう、例えば場合でもおかげを頂く、御理解を頂いてです、これから私がその、いっぱしの信心が分かったならばです、それを実行していくならばです、今まで悪い事で思うておった事は悪い事ではない、むしろ、御の字をつけて頂くべきであったと喜びで受けていけれる信心が続けられたらその内に病気災難の根も切れるだろう。
 これも、昨日の一番最後にお参りをした私と一緒に、お粥食を最後に頂いた方なのですけれども、中々内容にはよいものをもっておられるけれども、あんまり評判の良い方ではないのです。その方が、私が今一生懸命修行させて頂いておる、今日の御理解を頂いていよいよこれは本気でおかげを頂かなければならんと思いよりますというて、言っておりましたがいつかの御理解に、例えばどんなに素晴らしい、いうならば香ですね、こう香、かおりの。香であっても、それを茶碗かどんぶりかで炊いたぶんでは値打ちがない。ならどんなに素晴らしい香炉が座敷においてあってもそれに香が炊き込められてなかったらまた香の値打ちはない。信心はその両方を頂いていくことだと。それは心から入っていく人もある。形から入っていく人もある。形から入っていくのをいうならば香炉のような信心であろう。心から入っていく人をいわゆる香そのものであろう。なるほど、素晴らしい香、素晴らしい香。けれども、それが、茶碗かどんぶりかで炊いてあったとしたら、座敷のもう雰囲気まで壊してしまう。香だけでもいかん。形だけでもいかん。
 私共の場合はまあ芯は良い香をもっておるような自分で気がするけれども、最近から見てからです、いうなら茶碗かどんぶりに炊いておるようなものが私だと気が付かせて頂いて、その事に一生懸命取り組ませて頂いておると。そしてまあ、今日の寒修行に最後のおかげを頂かせてもろうてです、神は、天地の守じゃから離れる事は出来んと言われる神様を自分で離しておる。頂き続けさせて頂けれるおかげを頂かなければならんのに、内容の時には自分はぴったちと頂いておるけれども、形の面になった時にはもう神様を外しておるから神様のご守護を受けていないと同じような結果しか生まれていない事に気が付いたと昨日言っております。ね。そういう意味でです、たとえば信心が内外ともにです、出来てくる。自分の心が今まで天と思うておったのが地と思うほどに赤と思うておったのが白というほどに心の進展をとげる事が出来る。
 そういう信心がです、例えば途中で止めればそのままである。赤は赤であり、やはり内容は内容であり形は形というように、ような、ことにしか止まらなかったものがです、例えば寒修行と言うその期間にそういうような色々な意味の事が分からせて頂いた。ね。それをまあ、ひっくるめて佐田さんのところの例を聞いてもらいました。
 途中で止めれば病気災難の根は切れぬ。井戸は盛衰なるまで、と途中で止めるとか止めないとかじゃない、途中で止めないような事もあるかもあしれません。試験を取っても落第点ばっかりとったというような事があるかもしれん。けれどもそれをかえって、そこんところが分からせて頂いて次のおかげを百点満点を取らせて頂くようなおかげにもなってその勉強も楽しくなって、おかげで6年間続いた。6年間続いたからもう止めようじゃなくて、恐らくはです、佐田さんご一家の御信心というものが、いよいよありがたく楽しく続けられる事であろう。そこではね、元気な心で信心せよと仰せられる、勿論元気な心も要りますけれどもそう気張らんでも、有り難く出来れると言うことからです、めぐりのお取り払いというよりもです、めぐりをこちらからこちらから払うていく、めぐりの出ようのない病気災難の出ようのないほどしのおかげの世界というものが展開してくる。
 そういう、ひとつのおかげを頂いていきたい。お互いがまだ、元気な心を出さなければ出来ないでしょうけれども、その元気な心が当り前、昨日、沢山いろいろな修行をこの寒修行をなさった人達がお届けをなさいました。そして一様はこれで切りましたけれども、この次にはこういう修行と言う方が非常に多かった。今度は。ね。それはどう言うことかと言うと修行の有り難さ、修行をしなければ分からない分野があることに気付いたと言うことが本当だったでしょう。修行をすることによって新たないわば信心の分野が開けてきた。
 そこにいよいよ有り難いもの信心というものはそういう私はものだと思う。これからこれまでで良いというものではない。ね。ここでは、いうならば一生が修行と仰る、その修行の程度も段々高度なものになってくる。しかも楽しゅうあり難くなってくるということに信心修行の大体値打はある。そこから本当の値打のある信心ということが言えれる値打のある信心を身につけていく事が出来ていくことだと思いますね。
                                     どうぞ